「だいぶ上の方の毛が薄くなってきたわよ」、「そんなこと言っておどかさないでくれ
よ」。ある日曜日の夫と私の会話である。理髪店が嫌いだった幼稚園時代の娘たちの
ために片手間に床屋さんを始めて以来今日まで続いてきた仕事である。始めのころ
は娘たちだけだったが、そのうちに夫も父もやってほしいと名乗りを上げ、我が家の恒
例行事になってしまった。体よくおだてにのせられてしまった感じがしないでもない。娘
たちもさすがに高校生になるとそれぞれ美容院へ通いはじめたのでお客は徐々に減
り、夫だけになって久しい。夫は床屋さんへ行くことなどすっかり忘れ、いまだに{バー
バーたえこ}をご愛用である。
娘たちも小学校4−5年頃までは私の思いのままに髪を切らせてくれていたが乙
女心が芽生え始めると次第に注文が多くなってきた。「この部分は長くして」とか「ここ
は今日は切らないで」と言い、中学生になると「今日は段カットにして」などと難しいテ
クニックを要求するようになった。言われた私は大変、全くの自己流でカットしてきたの
だから、注文を出される度に大慌てしてしまった。なるべく期待に応えられるように、自
分のために美容院へ行ったときは傍らでカットしている美容師さんの手許を観察し技
術(?)を盗みとるのに一生懸命だった。鏡の前で頭は固定したまま右隣へ、左隣へと
目だけをキョロキョロ走らせ美容師さんの手つきに注目した。鏡に向かって目だけを動
かしている私を見ている人はきっと異様に思ったに違いない。
他方、娘達の自己主張は日に日にエスカレートし、ついに当時人気のあった『ベ
ルサイユのばら』の本をひろげて、「このアンドレ風のスタイルにして」などと言うように
なった。こうなったらどうしようもない。「私の手には余ります、美容院へいってちょうだ
い」と、{バーバーたえこ}の廃業を宣言した。
ところが夫は「待ち時間が長くて無駄だ」とか「蒸しタオルが気持ちが悪い」とか
「君も結構うまいよ」とおだてたりすかしたりして私の理髪ボランティアの存続を促すの
だ。
とはいえ、男の人のヘアスタイルだってそれほど簡単ではない。結構流行があ
り、揉み上げが長くなったり短くなったり、サイドラインが微妙に変わるのである。へた
な素人理髪を少しでも格好良くみせるために努力しなくてはならない。従って、街へ出
たときにはできるだけ男性ヘアスタイル・ウオッチングをしている。しかし、あまりしげし
げと見つめていると(あのおばあさんすこしおかしいのじゃない?)と思われかねない。
変な誤解を招かないようにさりげなく観察しなくては。