「異本病草紙」考−その13

        高崎医師会 服部 瑛

 嬬恋歴史博物館館長の松島榮治氏より、群
馬県において「多年すぐれた研究・実践活動
を積んでおられる人々に発表の機会を与え(
原文のまま)」ている「みやま文庫」に、
「異本病草紙」について200頁ほどで執筆
して欲しい旨のご要望をいただいた。掲載は
平成16年頃になるらしいが、「異本病草紙
」のいままでの仕事が集大成できる機会でも
あり、嬉しいことである。
 ただし「異本病草紙」だけでは、群馬県と
関連が無いので多少関連のあるものも付け加
えて欲しいと言う。
 そこでこれまでの「異本病草紙」を調べる
経緯のなかから群馬県に関連することや、思
い出深いことなどを付け加える試みをしてみ
たい。
1.村上三郎先生

 私の手元に『平安時代の文学に現れたる疾
病とその対策』という書物がある(図1)。
これはまったく偶然のことながら、私が師事
している謡(宝生流)の先生から頂戴したも
のである。著者の村上三郎先生は謡曲を趣味
にされていると伺っているので、おそらく村
上先生ご自身か、その関係者から渡っていた
ものであろう。
 村上先生は京都大学医学部を昭和11年に
卒業され、前橋赤十字病院に勤務後、前橋市
で耳鼻咽喉科を開業。現在は閉院されている
と聞くが、今年93歳になられた。

『平安時代の文学に現れたる疾病とその対策
』の目次は次(下記)の通りである。

 はじめに
 1.平安時代の疾病とその特色
 2.平安時代の医療と医学制度の概況
 3.流行病とは
 4.疾病各論
 おわりに
 年表
 補註

 内容的にきわめて濃く、特に各時代の流行
病発生状況とその時々の対応処置及び参考文
献が表示されている「年表」は、精緻を極め
ている。その参考文献の多さから、当時の文
献を小まめに、精力的に検証されたことが推
察され、非常に価値ある書物だと感じられる
。自費出版なので、ごく僅かな人にしか知ら
れていないように思われる。私にとって異本
病草紙の研究には欠かせない重要な書物の一
つになっているのだが、よくぞここまで調べ
られたと感服するばかりである。
 以前、異本病草紙の医学的解釈に関する拙
文2)を、ご覧いただきたい由、書き添えてお
送りしたが、残念ながら返事はいただけなか
った。しかしながら、奥様からとても喜んで
くださったというお話を伺い、うれしかった
。もっと早く、先生にお会いできたならば、
的確な、興味深い平安時代の医療に関する情
報を教えていただけたはずである。
 この書物は、平安時代の疾病に関する貴重
な、そして重要な“玉石”であることはまぎ
れもない事実である。

2.長門谷洋治先生

 私の医学史の恩師である。大阪府豊中市で
皮膚科医院を開業されていた。異本病草紙を
研究するにあたり、荻野篤彦先生(元国立京
都病院皮膚科医長,現、おぎの皮フ科院長)
からご紹介いただいた。
 現在ご療養中で音信不通であるが、温厚で
、実に精緻なご性格の先生であった。異本病
草紙に関する資料を自発的に数多くお送りく
ださるとともに、関連する情報をことあるご
とに頻繁に与えてくださった。それは大きな
ダンボ−ル一箱にものぼる。その資料がなか
ったならば、現在の私の異本病草紙の仕事は
なかったと断言できる。
 先生は、関西医学史学会の重鎮でもあり、
「醫譚」(日本医史学会関西支部)という学
会誌の発行人をされていた(図2)。
 仙台の日本皮膚科学会総会(平成12年)
で、一度先生にお会いし、某料亭で数時間共
に痛飲する機会があった。沈着冷静な、そし
て心優しい先生で、私には楽しく、嬉しい出
会いだった。
 平成13年春頃より体調を崩されて、現在
入院中でいらっしゃる。お見舞いに行こうと
した前日に、あろうことか意識が無くなられ
たという最悪の連絡をいただいた。
 実に実に惜しい先生である。先生の手にな
る医学史に関する膨大な著作は、皮膚科とい
う枠を越えて、医学史学会に大きな影響力を
持っている。おかげさまで私は、平成14年
3月、先生へのお礼を込めた「異本病草紙に
ついて」を著すことができた3)。
 先生は、私の仕事に全面的に協力してくだ
さったが、私のやり方・考え方などについて
は忠告などを含めて、意見を加えることは一
切なさらなかった。いつも暖かく“頑張りな
さい”とおっしゃるばかりだった。ただただ
感謝し、ありがたいことだと思っている。

 長門谷先生が編集委員もされた『図録日本
医事文化史料集成・全5巻』は、今や絶版に
なった、貴重な名著である。先生は私のため
にこの書物を購入する手筈をわざわざ捜しつ
けてださった。
 その第1巻に、高崎と関連のある記述がみ
られる「皮角の図」4)(図3)を見つけた。
酒井シズ先生(順天堂大)、の説明をそのま
ま掲載させていただく。

 越中の若栗村の百姓六左江ヱ門の頭にでき
た皮角。皮角は老人性角化腫の一種で、一セ
ンチあまりのものはいまもよく見かけるが、
これほど大きいものは珍しい。この図は天保
三年、六左ヱ門が上州高崎連雀町の漢方外科
千木良昌哲に治療を求めたときに笠原周谿が
描いたものである。
 その病歴をみると、天保元年、髻(脚注
もとどり;髪を頭の上にたばねたところ)の
両則に長さ三寸余りの皮角が二本生じ、つづ
いてその前後に牙状のものが二本、さらに左
鬢(脚注 びん;耳ぎわの髪の毛)に小指大
のものが三本生じた。患者は激しい頭痛と不
眠に悩まされ、各地の名医を訪ねたが治らず
、絶望していたときに、高崎の千木良昌哲の
治療を受けて全快した。
 『新撰病草紙』にも皮角の図があるが、そ
れは石瘤と呼び、患者は生きながら阿修羅の
道に入ったと嘆いている。

 皮角は、珍しい皮膚疾患ではあるが、今で
も時に遭遇する。“老人性角化症”の一型で
、ほとんどは単発である。したがって、この
図にある鬼の角のような臨床像はまず考えに
くい。おそらく一個の皮角を鬼のごとく誇張
して描いた絵図であろうと思われる。
 当時の治療法は定かでないが、“阿修羅の
道に入った”とはいかにも大袈裟である。痛
いとか痒いとか、感覚的には無症状なので、
見た印象が阿修羅なのであろうか? いずれ
にしても、その当時の人たちにとっては、鬼
の角にも似た奇怪なものであったことは、十
分に想像できる。

         文献

1)村上三郎:朝日印刷,前橋,1991
2)服部 瑛:医家芸術,44:72,1999
3)服部 瑛:Visual Dermatology,1:98,2002
4)日本医史学会編:三一書房,東京,1978