「佐藤医院(榛名町)」
異本病草紙考−その15
高崎市医師会 服部 瑛
日常生活に埋没しているなかで、過去に繰り広げられた歴史の営みを発見することは思いのほか興味深い。
私は「異本病草紙考―その14」1)に、昔日を偲ぶ“佐藤医院”の写真を東京の某古書店から入手したことを記した。てっきり高崎の佐藤医院のものだと思っていたが、平成14年7月榛名町の佐藤洋一先生(群馬郡医師会)から、その写真は祖父のものだというお電話をいただいた。不思議なことに掲載された『群馬県医師会報』を最初に繙いたところ丁度その頁に写真があったとのこと!佐藤先生は咄嗟に身内の写真だと感じたそうな。これは私にも驚きだったが、佐藤先生にとっては晴天の霹靂だったにちがいない。これも一つの“縁”なのであろう。
その頃多忙だった私は翌年2月頃お邪魔してもよいですかと、お願いした。
平成15年2月11日(火)、私は家内を連れて榛名町を訪れた。某ゴルフ場にはときどき行くので周りの景色は馴染み深い。榛名町に入って、滑(なめ)川を渡ってすぐ、大森神社脇に佐藤医院を見つけた。もちろんもはや写真で見られた“佐藤医院”の面影は全くない。佐藤先生ご夫妻は暖かく私たちを迎えてくださった。しばらく雑談の後、佐藤先生ゆかりの「榛名神社」2)に行くことになった。
「榛名神社」は、もう何度も訪れているので新鮮な感慨はないが、いつ来ても心地よい。「隋神門」からの参道は思いのほか長い。そしてその参道から眺められる景観はいつも清浄な世界を醸し出してくれる。三重塔を越えてから見える滝は、真冬のこの時期結氷していた。これも神聖な場所では絶景となる。
この近くに“里見”という村落があって、歴史に名高い「新田義貞」の生誕の地であることが喧伝されている。事実かどうかは別にして、新田次郎の『新田義貞』の小説の中の修験山伏が密かに集まった山奥、まさに「榛名神社」の景観を彷彿させる物語を思い起こした。
本堂前の社務所で佐藤先生は、あらかじめ禰宜(ねぎ:副宮司)のI氏に引き合わせてくださった。I氏は本堂脇の「拝殿」に私たちを案内し、室内を見せてくださった。絢爛だと聞く「本堂」は現在修理中で、残念ながら見ることはできなかった。
「榛名神社」は明治までは“神仏習合”であり、東叡山上野寛永寺の管下に属し、徳川幕府から手厚い庇護を受けていた2)。当時仏式のその部屋では“護摩”を焚いていたので天井が今でも黒い。明治になって“廃仏毀釈”によってほとんどの仏教物が廃棄され、「榛名神社」として独立させられた2)。その当時新しく建立された三重塔だけが僅かに残ったのだそうだ。
降りて三重塔の先のすぐ右側には“痘瘡神をまつる小祠”があるという(図1)。歴史書によれば、江戸時代を通して、日本人の死因の第1位を占めていた疾患は痘瘡だった。病因不明な時代には、痘瘡のきわめて激烈でしかもひどく奇異な病態から、痘瘡に鬼神あり、と恐れられた。痘瘡の流行は“痘瘡神”がなせる業であり、この神に祈願すれば痘瘡にかからない、という信仰があった3)。
それほどまでに痘瘡は、その当時の人たちにとって大変な疫病であった。今なおこうした疱瘡を祀る“祠”が全国各地に沢山残されているという3)。
I氏は、「榛名神社と榛名信仰」4)と「榛名神社調査報告書」5)の2冊を見せてくださった。どちらもこの神社を詳細に調べた貴重な書物である。ことに「榛名神社と榛名信仰」4)は長い参道の“玉垣(たまがき)”などに記された寄進した人々の氏名・地名すべてが詳細に記載されており、新たな視点から「榛名神社」を調べた克明かつ重要な資料であると思われる。
「榛名神社」には、かつて年間30万人以上の参拝者がいたが、最近は半減しているという。群馬県にこれほどの規模で、風光明媚な神社はあまり無いように思われる。時に私の友人・知人をこの「榛名神社」に連れていくが、おおむね評判がよい。いかにこの由緒ある神社を昔日のごとく残すべきか、群馬県における大切な問題の一つであるように思われる。
「榛名神社」を後にして再び佐藤医院へ。すぐにお暇しようと思ったが、奥様が私たちがいない間に、わざわざ蔵を捜して昔の写真を用意しておいてくださった。
「異本病草紙考―その14」1)の写真中央の禀とした男性は、佐藤洋一先生の祖父にあたる方で、佐藤新太郎先生6)という医師である。時には写真(図2)のように宮司の仕事もされていたことが分かった。医師と宮司とは珍しい組み合わせだと思ったのだが、なおも写真を捜してみると、写真の先代の方はまさに「榛名神社」の宮司だった(図3)。その先代は、富岡の名家であり、代々医家だった“阪本医院”から養子に入られたことを知った。この事実から“宮司”と“医者(医術を行う者)”との接点が朧げながら類推できるように思われる。まだ医療が未発達だった頃、おそらくその地において多くの人に接し得た、そして地位が高く、学識も豊かな“宮司”のような人物が医療の一端を担っていたのではないだろうか7)。明治時代の榛名町では、なお医業単独ではなく“宮司”と兼職していた可能性が十分に窺える。それは“僧侶”であってもよい7、8)のだろうが、榛名では「榛名神社」の主が長い期間その役割を担っていたと推察される。さらに佐藤家の人たちはすべて優秀だったそうだ。ちなみに佐藤新太郎先生は千葉医専卒と聞いた。
榛名町の佐藤医院も丁度100周年を迎えるとお聞きした。ヨーロッパの長い歴史とは比べようもないが、日本でも一世紀以上の医療機関がこれから続々誕生してくるのであろう。喜ばしいことである。
佐藤新太郎先生の弟である佐藤虎次郎先生は東北帝国医大を出られて、北海道に国費で移住されたという。その建物が今でも士別市に残されていることが北海道の地元の新聞に報道されていた9)。群馬からの俊英が、医療の分野でも全国に根ざし、確固たる実績を積んでこられたことを目の当たりにした。
佐藤洋一先生は、「私はこうしたことにあまり興味が無くて」などと話しておられたが、奥様がしっかり佐藤医院の歴史をfollowされていた。貴重な歴史である。
「異本病草紙」から始まって、群馬の医師の歴史にも興味が重なってきた。群馬県独自の医学史にも、残しておかなければならない多くの事実が、今なおベールに包まれているように思われる。
文献
1) 服部 瑛:群馬県医師会報,648:24,2002
2) 室田町誌編集委員会編:「榛名神社」『室田町誌』(榛名町),1966.10
3) 立川昭二:「疱瘡」『近世病草紙』,平凡社(東京),1979.2
4) 谷沢明監修:『榛名神社と榛名信仰』,放送大学地域社会研究会(前橋市),1999.9
5) 群馬県教育委員会編:『榛名神社調査報告書』,朝日印刷(前橋市),1995.3
6) 群馬郡医師会編:『群馬郡医師会史』,朝日印刷(前橋市),2001.8
7) 根岸謙之助:「中世の医療」『医療民俗学論』,雄山閣出版(東京),1991.3
8) 丸山清康:「宗教と結びついた医療」『群馬の歴史』,群馬県医師会,前橋印刷(前橋市),1958.12
9) 北海道新聞,「旧佐藤医院」,2002.1