異本病草紙考−その28
−『方丈記』からみた『異本病草紙』
その1−
高崎市医師会 服部 瑛
はじめに
「異本病草紙考察−その27」まで書きながら、数年間『異本病草紙』から距離を置く結果となってしまったのには、二つの大きな理由がある。
その一つは、当時私は、さまざまな皮膚科関係の公務・雑務に追われるようになり、余裕のある時間がまったくなくなっていた。
もう一つは、「異本病草紙考察」という自己満足とも思えるそれまでの作業に疑問を感じたことも否めない。
しかしながら最近、公務を退き、多少のゆとりが持てるようになり、『異本病草紙』という稀有な絵巻物に巡り合えた幸運は大切にしなければならないと思えるようになった。
この絵巻物のほとんどは医学に関する情報なのだが、意外にも医師が対応していない懸念があると、松島榮治氏(群馬県文化財保護審議会会長)が述べておられる。“それならば『異本病草紙』の検討には、医師も加わるべきだ”と思った当初の考えが再び頭をもたげてきたのかもしれない。
実際、皮膚科医は皮膚症状を直截的に「見る」という実践・行為が必要であることから、絵巻物のような絵図を解き明かす際、皮膚科医の考察が有効な手立てになると思う。
また、平成19年暮れ、『方丈記』1)を読んだこともそのきっかけとなった。
『方丈記』の成立は建暦2年(1212)とされており、『異本病草紙』の世界と年代的に共有すると気付き、興味が増したのだった。ごく最近再読して2)、『方丈記』の中から、同時代と考えられる『異本病草紙』のいくつかの絵図が浮かんできた。まずそこから今回の作業を始めてみたいと思う。
『方丈記』とは
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。」(以下『方丈記』の引用はすべて簗瀬一雄氏の著作『方丈記』2)によった)
この有名な一節で語り始める『方丈記』は、我が国の代表的随筆文学である。平安時代の清少納言による『枕草子』、そして『方丈記』より約100年遅れて著された吉田兼好の『徒然草』と合わせて「三大随筆」とされている。
作者は、鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)で、京都下賀茂神社の禰宜の次男として生まれた。少年時代に父(長継)の突然の死に遭い、その後零落して、苦労を重ねた。その人生における様々な苦難を背景にした『方丈記』は、鴨長明が50歳代後半という晩年に書き上げた手記、あるいは回顧録でもある。決して明るくもなく、美談ともいえないが、悟りきった生き方が印象的な著作である。
鴨長明の年代について
ここで鴨長明の年譜を追ってみたい。先に述べたように、久寿2年(1155)下賀茂神社禰宜の次男として生まれた。下賀茂神社の禰宜であれば高官であり、裕福だったはずである。それを証明するかのように長明は、和歌や琵琶にも秀でていたのだが、勢力争いなどに巻き込まれて、50歳春、出家し大原にこもった。『方丈記』を書き上げたのは58歳(1212)、建保4年(1216)62歳で没した。
この時代は、まさに『平家物語』の世界と重なっている。私はかつて、長い時間をかけて吉川英治の『新・平家物語』(全16巻)3)をようよう読み終えたことがある。その当時は『平家物語』にそれほど興味を持てなかった。しかし吉川英治の『新・平家物語』は、「国賊、悪者」と評されてきた清盛に、新しい、それまでと異なる暖かな視点を与えており、読むのに手間取ったわりには記憶に残っている。
周知のように『平家物語』は、主に清盛を代表とする平家、そして義経、頼朝ら源氏との源平対決が物語を盛り立てている。そしてその歴史の中で、後白河法皇がいつも圧倒的な迫力と存在感をもって君臨しており、平家一族の物語でありながらも、法皇の1代記と考えても良さそうである4)。後白河法皇は、沢山の絵巻物を作らせたと聞いているので、その一つに『異本病草紙』を作成された可能性があり、それが事実ならまさに私の意に添うことだと感じている。
『異本病草紙』考について
まず以前、私たち(前国立京都病院医長、 現おぎの皮フ科院長 荻野篤彦先生、そして前群馬県立歴史博物館学芸員・主幹 唐澤至朗氏)が検討した『異本病草紙』に関する見解5,6)を抜粋してみたい。最初は、図1「男の死屍をかじる狂女」である。私たちは、「筵を掛けられた屋外にある裸の男の死体にかぶりつく狂った女の絵である。平安時代末期の乱世では、飢饉が発生し、飢えと病に命尽きた多くの死骸が道端に散乱していたようであり、この絵図に見られるような異常な状況は各地で普通に見られたのであろう。平安時代末期では、このような恐ろしい光景が、日常茶飯事の出来事として街の路上で繰り広げられていたのであろうか」(群馬県医師会報610号より抜粋6))と私たちは推定した。
『方丈記』を読むと、丁度その頃、確かに大飢饉があったことが記載されている。その部分を抜き出してみると、「予、ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ」から始まって、災害や変事について具体的に解説されている。それらは、@安元3年の大火、A治承4年の辻風、B福原への遷都、C養和の大飢饉、D大地震の5つである。
この中で、図1に関連する、Cの大飢饉に関して、記載の一部抜粋してみよう。
「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、或は秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみのみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし」
との説明があり、次のように続けている。
「はてには、笠うち着、足ひき包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞い歩く。かくわびしれたるものども、歩くかと見れば、すなわち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり。」
私は、この絵図(図1)がまさに、其の時の情景だと強く確信した。養和は、1181年7月14日より始まり、翌年5月27日寿永と改元されるまで、わずか10か月間でしかなかった。想像を絶する大飢饉だったからこそ元号が変更されたにちがいない。
そういった視点から絵図を眺めると、男の死体とかじる狂女の姿がその当時を彷彿させる。当時、このように放置された死体は珍しくもなく沢山あったのであろう。さらにはこの大惨事で狂ってしまった人たちも多かったと考えられる。
私たちは追記して、「左のニキビ面で鼻瘤の男は、烏帽子もかぶらず日本人ばなれした容貌であり、北方系の外国人のようにも見える。子供が指さして、囃したてている様子がみてとれる。この『異本病草紙』では、この絵図のように病人などの主人公を取り巻く人達が表情豊かに、また仔細に描かれており、一つの重要な特徴である」6)と注目したが、この絵図で右側にみられる死体の場面と左側の観衆の場面との異相ははなはだしい。大飢饉による悲惨な現実があったはずなのに、観衆は興味深く冷静に眺め、あるいは楽しんでいるようにも見える。現実はそんな余裕があるはずはないのだが、絵巻物で表現する際、あえて厳しい現実と客観的な視点を共有させたように思われてならない。
そして、図2「庭先に放置された黒い身体の死体」は、大飢饉時のエピソードの一つと関連しているように考えられる。
「家の庭先で倒れている黒い裸の死人を見て驚いて逃げる二人の女達が描かれている。あくまでも推察であるが、死体の前方で踊っているように見える男が、どこからかこの死体を運んで庭先に置いたのではないだろうか。上半身裸であり、焦点のない顔つきなどから、狂った男と思われる。死体の皮膚全体が黒く描かれているが、これは死後変化を示しているのであろう。腹部は膨らんで、鼓腹状態にある。この当時、一般庶民の間では、死体が粗末に扱われていたようである」6)と推測したのだが、図1でみられたように大飢饉では沢山の死体がころがっていたはずで、またこのような狂人も多かったに違いない。
鴨長明(1155~1216)が実際に体験した大飢饉(1181)は、まさに後白河法皇(1127~1192)が存命していた時代だった。当時、後白河法皇が記録的な事件を含めて沢山の絵巻物を作成させたことを教えてくださったのは、平成11年にお会いした京都国立博物館の若杉準治先生である。 ちなみに、およそ1100年までの絵巻物は現存せず、それ以降、法皇の死(1158年院政が始まり、1192年に皇没された)までに完成したと考えられる、「源氏物語絵巻」、「信貴山縁起」、「伴大納言絵巻」、「鳥獣人物戯画」、「寝覚物語絵巻」「粉河寺縁起」、「地獄草紙」、さらには「餓鬼草紙」など多数の絵巻物がみられる7)。もし後白河法皇と絵巻発刊・収集が本当ならば、この時の異常事態を絵巻物に記録しておく作業があってもおかしくはない。ことに、およそ2年間続いた養和の大飢饉は、後世に知らしめたい大災厄だったに違いないのである。
(つづく)
文献
1) 長尾剛,『方丈記』,PHP文庫,PHP研究所発行,2005年6月
2) 梁瀬一雄訳注『方丈記』角川ソフィア文庫,角川学芸出版発行,昭和42年6月
3) 吉川英治『新・平家物語』(全16巻),吉川英治歴史時代文庫,講談社発行,1989年10月
4) 見延典子『平家物語を歩く』,山と渓谷社発行,2005年
5) 唐澤至朗,服部 瑛,群馬県立歴史博物館紀要,第20号,1999
6) 服部 瑛,荻野篤彦,群馬県医師会報610:53,1999
7) 榊原悟監修,『絵巻の見かた』,東京美術発行,平成16年3月