異本病草紙考−その29
−『方丈記』からみた『異本病草紙』
その2−
高崎市医師会 服部 瑛
前回、鴨長明が実際に体験した大飢饉と『異本病草紙』との関係を述べた1)。不思議なことに、私の調べている『異本病草紙』では図1、2、4、そして5まで、疾病ではなく、死体の絵図2点、そして病気ではない絵図2点が一塊となって認められる。偶然かもしれないが、私はそれらが当時きわめて注目された事実だったからこそ、関連して一連に存在すると考えた。その理由として、この『異本病草紙』の中に、中国風の絵図3点が収められており(図3)、その意味はまだ不明だが、どう考えても関連性のある絵図として一連に存在する、と思えるからである2)。
図4は、「怒って暴れて仕事を邪魔する男」と題して、「中央の男がなぜ怒っているのかは定かではない。恐らく、家を壊され、立ち退きを命じられているのであろう。そのため、怒って暴れそして興奮した男が、二人の男に押さえつけられていると思われる。一見、酔っぱらっているようにもみえる。中央左の一人の男が仕事を邪魔されたためか、怒った男を威嚇し、その男を一人の女が押し止めようとしている。怒って暴れている男は、その風体から在家出家者と思われる。この時代の僧侶は外出する際、足駄を履いたという。その足駄の一つが前方に認められる。編笠をかぶった女性が逃げるようにしているが、僧侶の女房であろうか。複雑な状況を連想させる絵図である。なお、荷車に乗せられた壊れた家の木々は、再利用のためどこかに運ばれていくのであろう。」3)と解釈した。
この点に関し、『方丈記』には、当時木材は再利用や燃料として重要だった事実が記載されている。すなわち福原遷都に関し、「軒を争ひし人のすまひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮び、地は目の前に畠となる」4)という記載が見られ、長尾剛氏5)は、この部分を、「彼らは身一つで移ってから(新都福原へ)『とにかく住む所を確保せねば』と、慌てふためきました。そして、京にあった自分の屋敷を取り壊し、その建材を新都まで運んで、再建しようと考えるのです。かくして人々が去った京の街では、家々を無残に解体していく様子が、あちらこちらで見受けられました。解体された建材は筏に組まれ、淀河に浮かべられて、南へと運ばれていきます。(以下略)」と現代語訳している。図4は、此の時のいさかいだと考えると理解しやすい。木材は、何時の世でも大切だったが、遷都という異常事態では、ますます貴重になったはずである。騒動を起こしながらも、次々と材木は運ばれていったのであろう。
さらに、大飢饉の記載の中で「あやしき賤・山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、みづからが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。」4)とあるように、材木は燃料としても、あるいは収入源としてもきわめて貴重だったのである。
もし図1、2、4、5までが一連のその当時の話題だと仮定すると、図5「車に乗せられた足萎の男」も説明しやすくなってくる。私たちは、「老いた僧侶が小さい荷車に乗せられて運ばれている。顔の表情からかなり衰弱しているようでもある。前かがみになって荷車に両手を置き、体を支えている。四人の子供が一生懸命荷車を引っ張っている。荷車は、この僧侶専用のものと思われる。当時、病人が死にかかると、その死屍の魂が家につくことを恐れて、住居から出して付近の庵のようなところへ移す習慣があったとの記載がみられる。これも重い病気に罹った僧侶をどこかに隔離するために荷車で運んでいるのかもしれない。しかし、まわりを取り囲む人達の表情は、決して悲しんでいるようには見えず、むしろ興味深げである。僧侶という、その当時特別な階層にある者が荷車で運ばれていることから推察すると、仏教的な因果によって不具となった我が身を自ら見せしめのために引き回しているとも考えられる。一方、歩行が困難な障害者は足萎(あしなえ)と呼ばれ、呪術者として畏敬されたとも云われる。しかし、反対に足萎に遭うと不吉なことだと忌み嫌われたという記載もある。」3)と難しい解釈をした。
一方『方丈記』には、大飢饉の項目の中に「仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ、数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らんとて、四五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の路のほとりなる頭、すべて、四万二千三百余りなんありける。」4)という記載が見られる。この文章を読んで、私はこの絵図(図5)の僧侶が隆暁法印のような人物ではなかっただろうかと想像逞しく考えた。冒頭にも述べたように、図1、2、4、5を1連の物語として考えると興味深い世界が生まれてくるのである。図1と図2には、死体が描かれているが、これは養和の大飢饉のためで、死体の多さの中での壮絶な現実を示したものであろう。その一方、前述したように、遷都などで、家の解体作業が日常的にあって(図4)、あわただしい材木の搬送が読み取れる。これらはまさに『方丈記』に記載されている事実そのものと考えられる。仮定が許されるならば、僧侶の題材も『方丈記』の世界の中にあるものだと推測したいのである。
場合によっては、この『異本病草紙』が『方丈記』の一部を絵図の基にしたのかもしれない。あるいは『方丈記』に記されているような具体的な事実が多くの人たちに強く認識されていたからこそ、絵図に残された可能性を考えてみたいのである。
もう一度当時の歴史をなぞってみよう。治承4年(1180)に福原遷都が実施され、翌年の養和元年(1181)に大飢饉があった。遷都では多くの家屋敷が破壊され運ばれ、飢饉では想像を絶する死者が出たはずである。『方丈記』が成立したのが建暦2年(1212)、およそ30年後のことである。後白河法皇が召されたのが建久3年(1192)とされている。鴨長明が「無常」を意識し書き綴った『方丈記』の世界が、絵巻物にも描かれたという推測はあながち暴論ではないように思えてならない。『方丈記』は、現在に至るまで750年をこえて圧倒的な存在意義を示していることから、その当時から脚光を浴びた著作であったように考えられる(現在の芥川賞や直木賞の世界かもしれない)。そして、『異本病草紙』は、その当時の疾病を含めて、歴史的な事実・証拠をも残したように考えられるのである。
さらに補足すると、『方丈記』には、諸種の
伝本がみられ、記事の分量から見て、まず広本と略本に分け、さらにその内容・文章によって、広本を古本系統と流布本系統、略本を長享本、延徳本、真字本に分けられるといわれている4)。そして、略本は『異本方丈記』として紹介されているのである。とすると、『異本病草紙』の「異本」の意味が問われてくると思われるが、『異本病草紙』と『病草紙』とは重複する疾患がほとんど無いことから、詞書のある『病草紙』に対する『異本病草紙』と考えた方が妥当であるように思われる。
『方丈記』を読んで、『異本病草紙』に関して新しい世界が垣間見えてきた思いである。まさに曇天が突然に晴れたようにも感じられ、さらに興味が湧き、今、その当時の古典を読み始めている。ひょっとすると医師の目から見て、新しい発見があるのかもしれない。こうして、私の古典遍歴はますます楽しい旅になりそうである。
補遺
今回、方丈記はまず、長尾剛著『方丈記』(PHP文庫)を読む機会があった。その後偶然に簗瀬一雄訳注『方丈記』(角川ソフィア文庫)を入手した。どちらもとても参考になった。特に簗瀬一雄氏のものは、『方丈記』の事典にちかく、さまざまな視点から『方丈記』を研究された名著である。どちらも手軽に読める文庫本であることも嬉しい。これまで数多くの『方丈記』に関する参考書が存在するが、偶然に購入したこの2冊が私には適切だったと思っている。歴史的な時間と空間を楽しく味わった思いである。それにしても、鴨長明の生き方は現代に置き換えても説得力があり、ゆるぎない世界観を示してくれていると思うのだが・・・・・。 (おわり)
文献
1)服部 瑛,群馬県医師会報, 2010
2)服部 瑛,荻野篤彦,群馬県医師会報,613:30,1999
3)服部 瑛、荻野篤彦,群馬県医師会報,610:53,1999
4)簗瀬一雄訳注,『方丈記』(角川ソフィア文庫)、角川学芸出版発行,昭和42年6月
5)長尾 剛『方丈記』(PHP文庫),PHP研究所発行,2005年6月