群馬県の医師(2)
 異本病草紙考−その31
       高崎市医師会 服部 瑛

 前回に引き続いて郷土史における群馬県に関係した医師を紹介する。

栗原順庵(くりはら・じゅんあん)
 1809(文化6)〜1882(明治15)。伊勢崎藩医。堀口村田部井氏。名は元泉、字は博淵、画号東陽、柴宿栗原貞順の養子となる。江戸の多紀氏について医学を修業。詩文を*古賀とう庵に学び、故郷に帰ってから金井鳥洲について画技を学ぶ。1851(嘉永4)年伊勢崎藩に出仕、1863(文久3)年侍医頭になる。1871(明治4)年学習堂教授となり第2次興隆期の郷学を指導した。医務取締、戸長用掛等。著書『医学異同弁』『橘黄閑話』『洋漢病名一覧』など。(菊池誠一)

木暮俊庵(こぐれ・しゅんあん)
 1800(寛政12)〜1867(慶応3)。中之条町伊勢町の生まれ。幼名俊太郎、後雅樹と改名、俊庵と号した。1815(文化12)年16歳のとき渋川の木暮賢樹に国学を学び、1818(文政元)年18歳のとき国学者平田篤胤に国学と和歌を学んだ。この頃から医術を志し諸国を歴訪、紀州の華岡青洲の門に学び、外科医術を修得した。更に1824(文政7)1820(文政3)年高野長英に蘭方医学の指導をうけた。1829(文政12)年居を榛名町下里見に構え、医を業とすると共に、近村から子弟を集め教育した。1856(安政3)年56歳のとき常陸に漫遊、本間玄調に西洋医学を学び里見村に帰って医業をつづけ、外科の名医として名声を博した。1867(慶応3)年没、68歳。(高橋喜平太)

木暮足翁(こぐれ・そくおう)
 1789(寛政元)〜1862(文久2)。渋川の漢学者・蘭医。名は賢樹。通称五十槻。渋川村の馬問屋の長男に生まれ、吉田芝溪に漢学、屋代弘賢に国学を学んだ。妹夫婦に家督を譲り、私塾を開き堀口藍園など多くの門弟を養成、「横町の先生」と呼ばれた。のち医学を華岡青洲や高野長英に学び、天然痘の予防接種も行った。墓は市指定史跡。(大島史郎)

斎藤寿雄(さいとう・ひさお)
 1847(弘化4)〜1938(昭和13)。小幡藩医斎藤寿軒の二男として生まれ、19歳まで江戸、渋川、高崎等の塾で学び、20歳のとき、父の後を継ぎ斎藤寿軒を名乗る。24歳で大学南校に進み医学を専攻する。特に博愛主義に徹し梅毒検査法を率先して学びその検査医となったり、甘楽第一基督教会が設立された当日に洗礼を受け、以後熱心な信者であった。一方、推されて県議会議員(4期)や国会議員(3期)等にも当選し政治に力を注いだ。また栄養学校長を勤める傍ら、男子は県立富岡中学校があるのに女子の高等教育の場のないことを嘆き私財を投じて私立富岡女学校を創設したこともある。更に児童の体力増強を目的として福島小学校に栄養給食制度を導入するなど多角的な活動を続けたが、根底には常に博愛主義が生きていた。(今井幹夫)

高野長英(たかの・ちょうえい)
 1804(文化元)〜1850(嘉永3)。江戸時代後期の蘭学者、奥州胆沢郡水沢(岩手県水沢市)に生まれた。蘭医であった叔父高野玄斎の養子となり、上京して杉田伯元に学び、ついで吉田長淑の内弟子となる。1825(文政8)年長崎のシーボルトの鳴滝塾に入り学ぶこと3年、師よりドクトルの称号を与えられた。1830(天保元)年江戸に戻り町医者として開業し、私塾大観堂を開いた。1831(天保2)年漢方医学にゆきづまりを感じ西洋医学に関心をよせていた沢渡の福田宗禎など吾妻の医師たちの招きで沢渡温泉へ来たのが吾妻郡入りの最初である。この時横尾村(中之条町)の高橋景作が長英に入門し、2年後に大観堂の塾頭となっている。1836(天保7)年、再び吾妻を訪れた長英は、飢饉の最中で救荒作物に興味を持ち、宗禎宅のそば、柳田禎蔵宅でじゃがいもを食べたことから『救荒二物考』を刊行している。1839(天保10)年『夢物語』の筆禍で投獄され(蛮社の獄)、5年後の1844(弘化元)年脱獄逃亡、1850(嘉永3)年捕吏に囲まれ自殺した。46歳であった。長英に師事した吾妻の医者たちは逃亡中の恩師を匿ったという伝説が各地にある。(唐澤定市)

高橋景作(たかはし・けいさく)
 1799(寛政11)〜1875(明治8)。医者(高野長英の弟子)。吾妻郡横尾村(中之条町大字横尾)の名主高橋政房の長男として出生。景作、名は盈・若仲と称し、号を篁庵、俳号を樹つらという。医者を志して伊藤鹿里に儒学・医学を学び1831(天保2)年沢渡の福田宗禎宅に来遊した高野長英の弟子となりその塾大観堂に入り、2年余りで塾頭となった。帰郷して医師として診療にあたる傍ら、私塾誠求堂を開き子弟を育てた。1839(天保10)年蛮社の獄で投獄されていた長英が、1844(弘化元)年牢舎の火災に乗じて脱獄した。景作は、生家に近い文殊院に匿ったという伝説がある。36年間の日記20冊の中に長英逃亡期間は欠けており、長英の塾大観堂印が遺品の中にある。景作は1875(明治8)年77歳で没した。吾妻神社境内に門弟によって建立された「篁庵先生追遠碑」がある。景作関係資料と追遠碑は中之条町指定文化財である。(唐澤定市)

高橋周驕iたかはし・しゅうてい)
 1846(弘化3)〜1916(大正5)。新田郡大館村(尾島町)に生まれる。幼い頃父親を亡くしたが、16歳のとき、群馬郡総社町(前橋市総社町)の今井周斎の世話になり、一時は今井の姓を名乗っていた。はじめは漢学を学んでいたが、後に医学に転向し、江戸幕府の西洋医学校で種痘術を学んだ。そして、群馬県で最初の種痘免許をうけた。その後、群馬郡総社町鍛冶町や前橋片原通り(前橋市千代田町)に医院を開業した。種痘の無料実施や群馬病院の設立につとめた。また、上越鉄道の敷設を計画するなどの見識の高い人物であった。著書に『上野鉱泉誌』『近代上毛偉人伝』があり、現在でも貴重な資料となっている。東京に転居した後、77歳で死去した。(平野岳志)

高橋友賢(たかはし・ゆうけん)
 1791(寛政3)〜1861(文久元)。群馬町井出の生まれ。医師。医学を本庄の里見崇周に、文学を南毛の篠塚光源院の教師に、更に書法を高崎の愛古斎医泉隆に学んだ。友賢の医学上の識見は、江戸中期の医学者吉益東洞の唱えた漢方医学の古医方である。友賢は理論より実際を重んじた漢方古医方をもって医業をすすめた。また、余暇を見ては論経を講義し、子弟の薫陶に努めた。その徳教の感化は近村にまで及び、門弟から榛名町本郷の細谷友徳を輩出している。(高橋喜平太)

高橋蘭斎(たかはし・らんさい)
 1799(寛政11)〜1882(明治15)。渋川宿の蘭医で歌人。名は勇魚。若くして名主となり、木暮足翁に師事し、青壮年時代に江戸で当時最も進歩的洋学者といわれた宇田川榕庵に師事した。帰郷後は、地方にあって新しい医術を施し名声が大いにあがった。堀口藍園など多数の門下生がいる。また書にも見るべきものが多い。(三井 聡)

津久井磯(つくい・いそ)
 1829(文政12)〜1910(明治43)。群馬郡清里村青梨子(現前橋市青梨子町)に生まれる。1853(嘉永6)年に前橋の産科医である津久井克譲の後妻となり、夫を師として産科学を学んだ。その後、産婆として独立し、夫が亡くなった後は産婆業に専念して内弟子を置くようになった。のちに順天堂で学び日本で二人目の女性医師となった高橋瑞子をはじめとする数多くの人材がその中から育った。また、1888(明治21)には「群馬産婆会」を設立し、初代会長を務めている。(小峰篤)

長沢理玄(ながさわ・りげん)
 1815(文化12)〜1863(文久3)。長沢理玄は秋元藩医周玄の子として山形城内で生まれる。秋元氏は山形へ転封となり、理玄は1846(弘化3)年6月館林城に移る。ときに32歳であった。幼少の頃より父につき、漢方・オランダ外科医術を学ぶ。1849(嘉永2)年江戸に出て、桑田玄斎門下生となり、オランダ牛痘法を学ぶ。1860(万延元)年理玄46歳のとき藩主に願い出て自費を投じて種痘所を金山(館林市本町二丁目)に設け「疱瘡長屋」と呼ばれ、種痘と治療に当たった。また山形まで出かけ、高擶地方で種痘を行い、かの地の門人にも種痘法を教え、多くの人々を疱瘡から救った。豪放磊落で機知に富み多くの逸話を残している。山形市内千歳公園内に理玄の彰徳碑が建てられている。1863(文久3)年10月8日没。墓は館林市朝日町の円教寺にある。(青木源作)

奈良一徳斎(なら・いっとくさい)
 1762(宝暦12)〜1846(弘化3)。勢多郡不動堂村徳沢(富士見村時沢)の生まれ。名は右門、光龍・俊沢と号す。宮下一徳斎ともいった。医を業としていた。多芸多趣味で、詩歌・俳諧・華道・茶道にも通じていた。特に、角田無幻を師として精進した書道は、最も得意とするもので、信州善光寺山門の額を書いたと伝えられている。村内外に多数の弟子がいた。時沢の不動堂には、奈良一徳斎の大額が、弟子たちによって奉納されている。一徳斎は篆書に優れ、「百寿百福」「道祖神」など各地に残されている。著書に、『赤城詣』1841(天保12)年、『文政当時諸家人名帳』がある。1846(弘化3)年に没した。(柳井久雄)

畑金鶏(はた・きんけい)
 1767(明和4)〜1809(文化6)。金鶏は名を秀竜、字を道雲といった。七日市藩の藩医であったが、36歳のとき、藩医を辞して江戸に出て俳諧・狂歌・戯作の道に進む。主な著作には狂歌五百題集・金鶏医談・西城見聞録・燭夜文庫など多数がある。金鶏の墓は藩主の眠る長学寺(富岡市高尾)にあり、その墓碑名は清水浜臣による長文の撰文である。金鶏の子が銀鶏、孫が鉄鶏であり、共に七日市藩の藩医であった。銀鶏が清水浜臣の門に入ったことから浜臣に父金鶏の墓碑名を依頼したものである。銀鶏も戯作者として能力に優れ、やはり江戸に出て数十冊の作品を遺している。墓は永心寺(富岡市七日町)にある。孫の鉄鶏は通称を道意といい、藩医の傍ら絵画を得意としていた。墓は祖父の金鶏と同じ長学寺にある。(今井幹夫)

馬場重久(ばば・しげひさ)
 1663(寛文3)〜1735(享保20)。江戸時代中期の農業指導者。北群馬郡吉岡町北下の人。通称三太夫。医を業とするかたわら農業を営み、農業や養蚕業の改良に力を尽くした。1712(正徳2)年『養蚕育手鑑』を江戸で出版した。それまで慣習に頼っていた養蚕技術に画期的指針をあたえた。蚕の発生から上蔟までの飼育方針を11カ条に分け、歌にしてわかりやすく説いた。また農業にも熱心で、馬場鍬という手鍬を発明した。墓は北下にあり、1952(昭和27)年県指定史跡となる。(永田勝治)

(つづく)

*古賀とう庵 漢字変換ができず平仮名記載してあります。