群馬県の医師(3)
 異本病草紙考−その32
       高崎市医師会 服部 瑛

 群馬県郷土史に深く足跡を残した先人の医師たちの紹介をさらに続ける。

原沢文仲(はらさわ・ぶんちゅう)
 1764(明和元)〜1839(天保10)。新田義貞の二男原沢将監を祖とし、北群馬郡吉岡町上野田の医家に生まれ、「野田の金瘡」で知られた外科医である。嶺東散などの金瘡薬で有名。文仲の名は代々襲名した。初代義誼は圭亭と号し、紀州の華岡青洲に外科を学び、熊谷の三浦無窮にも師事している。外科医として「野田の原沢」の威名を関東一円に轟かせた。桑園(存義)は義誼の女婿。復軒(義道)のときには最も栄え、文芸の友人も多く、高野長英も来遊した。また、駒形町(前橋市)の内田忠順に学資を与え、華岡の門に学ばせ学習の記録を送らせたのが今も医書として原沢家に残っている。また一族の墓地には医業六百年の功績を讃える碑が、明治時代の書家金井之恭の書により「先榮の碑」として建てられている。(今成昭二)

彦部五兵衛(ひこべ・ごへえ)
 1765(明和2)年に至輔の長男として生まれた。関白近衛前嗣に従って関東に来た彦部信勝が広沢の地に定住して後の9代目である。名を信有といい家督を継いで五兵衛を名のり、後には数馬と称した。農業を生業としていたが学問を好み著名な清水浜臣・橘守部らに師事して国学・和歌を学んだ。『農事暦』を作り適切な農作業の時期を示した。また医学にも強い関心を持ち、江戸に出て医師について学び、帰郷後は医療も行っている。10代知行は1789(寛政元)年信有の嫡男として生まれた。五兵衛を襲名し享和年間(1801〜1803)京都西陣で苦心しながら製織の技法を修得し、1826(文政9)年黒糸染の技法を開発し、黒繻子を創織した。彦部家を桐生地方有数の機屋とした。(大里仁一)

福田宗禎(ふくだ・そうてい)
 1791(寛政3)〜1840(天保11)。医者(高野長英に師事し蘭方を学ぶ)。福田宗禎(徳郎・浩斎)は、沢渡温泉の丸大福田家に生まれた。福田家は、元禄の頃(1688〜1704)から医者を兼ねており宗禎は襲名で浩斎は5代目にあたる。医学修行のため江戸に出て二宮洞庭について学んだが、30歳のとき父が没したため帰郷して家業を嗣いだ。研究熱心であり、評判を聞いて患者が多く年間3,000人を超えたという。宗禎は、新しい医学研究を求めて蘭方医学に興味を持ち、1831(天保2)年高野長英の弟子となり、その指導によってゲッシェルの外科医学書を翻訳した。長英は、著書『救荒二物考』の出版や火災のあった大観堂の再建などで宗禎の援助を受けている。蛮社の獄で入牢した長英を案じつつ1840(天保11)年50歳で没す。嫡子文同の建立した墓碑は町重文である。(唐澤定市)

ベルツ(ベルツ) Erwin Barz
 1849(嘉永2)〜1913(大正2)。ドイツのビーティヒハイムの生まれ。チュビンゲン大学で医学を学び、のちライプチヒ大学で臨床課程を学ぶ。1876(明治9)年日本政府の招聘により東京医学校(後の東京大学医学部)の教師として来日。1902(明治35)年まで在職して、医学生の教育と患者の診療に従事し、日本の医学の発展に大いに寄与した。ベルツが群馬県に来たのは、1878・79・80(明治11・12・13)年の草津と伊香保であろうといわれているが、1880(明治13年)年発行の「日本鉱泉論」の中で、日本の温泉について改良法を述べている。伊香保を例として日本の温泉場改良を目的として、具体的な方法が詳細に記されている。草津温泉の療養効果に注目し、高原療養所の建設を唱えた。また世界に草津温泉を紹介している。1890(明治23)年侍医となる。侍医としての立場から離宮(御用邸)の建設を進言し、1890(明治23)年伊香保と葉山に御用邸が設置される。1892(明治25)年東京大学医学部名誉教授となる。在日中は全国をよく歩き、医学の学問をはじめ、日本の温泉効用を広く研究し、また民俗学、人類学、日本の文学にも深く関心を示している。1902(明治35)年帰国に際し、多年の功により勲一等旭日大綬章を授与され、閣下の称号を贈られる。1913(大正2)年8月31日、64歳で没。草津町では、1938(昭和13)年ベルツ顕彰碑を西の河原に建て、また1957(昭和32)年ベルツの生地ビーティヒハイムと姉妹都市を結んでいる。伊香保町では1986(昭和61)年源泉地にベルツの胸像と記念碑を建て顕彰している。(中村倫司)

村上随憲(むらかみ・ずいけん)
 1789(寛政元)〜1865(慶応元)。蘭方医。名を憲。武蔵国久下村(熊谷市)に生まれ、佐波郡境町で医業を開いた。18歳のとき医師を志し江戸に出て蘭方医吉田長叔に入門。在塾8年で蘭方医術を修める。この医塾で小関三英・湊長安・高野長英らに知遇を得る。1823(文政6)年26歳のとき長崎に行き、1年あまり蘭方を学んだ。その後各地を周遊し、1828(文政11)年境町に居を定めて開業。特に外科術で評判を得た。幕末の動乱期、憂国の考え方を持ち、『征病餘暇黌桜』という私塾を開いた。ここからは子の俊平、大館謙三郎・金井之恭・黒田桃民らの志士が育った。高野長英との親交は有名である。蘭書の写本多数が子孫に伝えられている。(坂爪久純)

湯本俊斎(ゆもと・しゅんさい)
 1810(文化7)〜1843(天保14)。江戸時代後期、六合村大字赤岩の湯本家の当主、医者。湯本氏は、滋野姓海野氏から分かれた望月氏で草津温泉開湯伝説の細野御殿介の子孫で頼朝から湯本姓を賜ったという。湯本氏について、草津谷の領主として活躍が明確となるのは戦国時代からで、湯本善太夫・湯本三郎右衛門幸綱の代から草津を支配していたが、沼田藩真田氏初代の信之に仕えた湯本幸邦のとき、長男幸常が病身であったため家督を弟幸宗にゆずって赤岩に隠居し医者となった。その後、湯本家を嗣いだ沼田藩家老図書幸宗の死後断絶してしまったが、赤岩湯本家は医家として繁栄した。湯本幸常の曽孫明英・次の明敬の代に医師として有名になった。明敬の長子彦粛(徳潜)は筑前黒田藩の侍医に、三男彦確(徳晋)は馬庭樋口家の養子となり藤岡で開業、四男俊斎(徳方)は、湯本家の家督を嗣いだが、33歳で病死した。医学をはじめ多くの著述稿本・約80種の植物標本・篆刻などを残している。俊斎の後は省斎が嗣いだが弟の竜斎も医者で、5代にわたり8人の医師が出ていて、江戸幕府の医官として有名な多紀氏に学んでいる。なお、湯本家の家伝薬として月桂酒(まむし酒)・命宝散が有名であった。(唐澤定市)

かんがえ
『ぐんま郷土史辞典』では1600項目中30名の医師が取り上げられ、主に江戸後期から明治時代に活躍した医師が紹介されている。今回、30名の医師を紹介したが、彼らは皆、勉強家で、人望があり、多芸・多趣味で、そして人の育成に心掛けた。だからこそ、この辞典に掲載されているのであろうが、その選択基準を特定するのは難しい。おそらく彼らに匹敵するか、それ以上の医師も活躍していたにちがいない。ただ、この辞典に掲載されている人物の業績は、歴史的にみていずれも貴重であることに間違いない。
 紹介されている医師を俯瞰して、いくつかの特徴を挙げることができる。
1) 名医と称され、人となりは誠の徳人である。
2)比較的長命である。33歳〜91歳(平均69歳)
3) 医学の研鑽に熱心で、全国各地の名医のもとに赴いている。例えば長崎のシーボルト(鳴滝塾)や、紀州の華岡青洲などである。
4) 弟子の養成を含めて、人々の育成に大いに尽くしている。その際、私費を投じて援助している場合が多い。
5) 国学、俳句、和歌、漢詩、書道、絵画等多くの趣味を持っている。
6)群馬県の場合、ことに吾妻地方では高野長英の影響がきわめて強い。
などである。
 いわゆる「赤ひげ」的な側面が垣間見られ、現在の混沌とした医療現場において、大いに参考になるのではないだろうか。これらの詳細は、紙面の都合で、今後の作業に委ねたい。その際、『群馬の医師』(丸山清康、群馬県医師会発行)、『群馬県医師会誌』、『各市郡医師会誌』などの資料が貴重となってくる。まだまだ群馬県の医史について調べることは多い。今後、時間と紙面の許す限りそれらの情報を集積していきたいと思っている。そうした作業のなかから、過去から現在までに至る医療の流れを体系化できたらと密かに願っているところである。
 私たちは、最先端の医療を研鑽していてもなお先人に学ぶべきことが多いのではなかろうか。また、それらの大切な歴史は次世代のために遺していかなければならないと、強く感じている。
追記:抜粋した医師は、一部以前のものと重複しているが、再掲することも意義あると思われるので、ご了解いただきたい。
                (つづく)