ブル−ノ・タウトと田中病院 T
−異本病草紙考 その17−
高崎市医師会 服部 瑛
時代は新しくなるが、高崎市にはブル−ノ
・タウトが昭和9年8月から、少林山達磨寺
境内にある「洗心亭」に住んでいたことはつ
とに有名な話である。その際、井上房一郎氏
(井上工業)の多大な支援があったのだが、
それ以外にも援助する人たちが沢山いた。田
中病院(高崎市)の田中兵作先生もそのお一
人だった。
先日、田中太先生(耳鼻咽喉科田中医院)
から、水原徳言氏(建築家、ブル−ノ・タウ
ト研究家としても有名)がそのことについて
書かれた文章を見せていただいた。意外と知
られていない事実が書かれていた。そうした
貴重な記述は残しておかなければならない。
田中太先生のご了解を得たので、水原氏の
「洪水の夜」を掲載させていただく。
昭和9年9月25日(水)、碓井川に大氾
濫があり、ブル−ノ・タウトの日記にも詳述
されている。
「洪水の夜」 水原徳言
朝から昨日の雨が降り続いていた。
激しく降ると思っていると急にやんでは、ま
た降り始める。おかしな天気だった。少し待
っていたが午後になってもやみそうもないの
で少林山へ行くことにする。
「自転車ではおやめなさいよ」といわれたが
、私もバスで行くことにしていた。
赤坂のバス車庫まで歩きバスに乗りこんだ
。こんな日にバスに乗る人はないので車内に
二人しか居なかったがその人たちも途中でお
りて少林山前の停留所でおりたのは私ひとり
になった。
いつも洗心亭に通っている停留所前の豆腐
屋の娘さんの安子さんの姿が見えたが、また
激しく降り始めた雨で傘を開く前にすっかり
頭から濡れてしまいながら、少林山の石段下
まで続く橋に向かう。車は通れない木造の粗
末な橋だが、自転車で通っている時にはこの
橋を乗ったままで渡ることもあった・・・ 。渡
す板が安定していないので少し危ない。橋に
かかると濁流が渦を巻いて、流されてくる樹
木が波をかぶっている。これはひどいと思い
ながら渡り終わって石段下を見ると乗用車が
とまっている。こんな日に誰が来ているのか
と思って近寄ると運転者は乗ったままで客を
待っているらしい。
洗心亭は二つに分かれている石段の始めの
段を昇りそこから左に曲る小路の先にある。
途中の右手を覆うような竹藪の竹がその上に
倒れかかるようになっている。洗心亭の屋上
に、桜と楓の樹が揺れて、折れた小枝が散乱
していた。
「グ−テンタ−ク、イッヒ、ミハラ−ビッ
テ」玄関からエリカが少し驚いたように、「
ヴァス イスト ダス」という。タオルを借
りて身体を拭いて上ると来客は高崎の耳鼻科
のお医者さんで田中兵作氏だった。
ブル−ノ・タウトは、耳だったか鼻だった
か忘れたが、田中病院で見ていただいたこと
があり、ドイツに留学された田中兵作氏はド
イツ語を話されたから洗心亭を訪れて病気と
は関係なく親しくいろいろな配慮をされてい
た。
井上房一郎が相談を受けてその病院を新築
された時に当時新しい建築家の、いわば流行
のようになっていたトロッケンバウ式の建築
形式の設計だった。私もその病院のインテリ
ア、家具の図面を担当している。タウトもそ
の建築を見ているが単純な形を、ほんとうは
鉄筋コンクリ−トで作るべき造形を乾式工法
で貼って、形だけを模倣した、いわゆる国際
建築のグロピウスやコルジュジェ等の真似し
たものをあまり賛成したとは思われないが興
味を持っていた。
田中氏はタウトの作品を扱って銀座に開い
たミラテスと言った工藝品の会社に資金を提
供され、それがタウトの仕事を続ける為の重
要な基本になっている。もちろん直接それは
タウトの収入になるものではないけれども、
それはタウトの業績をサポ−トしてくれるも
のだった。
ミラテスという株式会社の経理担当責任は
梅山信正という人で、私は金銭の出し入れは
定められた伝票に記すだけで綜合的な収支が
どうなっているのか全く知らなかった。
井上房一郎という人が自分の金でタウトの
デザインによって作られる工藝品の製作費す
べてを支払っていたわけではない。タウトの
家具の設計は石原寅三郎という人が責任者だ
った高崎木工製作配分組合という所で作るの
で、その費用は組合の負担だし、布帛類は高
崎タスパン株式会社の担当するものだった。
漆工藝品だけが最初から井上房一郎個人の金
で材料、調度品等を用意されてそこに私は雇
われて所属し、次で二、三人の者が職工、あ
るいは徒弟として雇用されて始められたのだ
が、ミラテスという会社が創立されるとそれ
も独立して井上漆部という職工だった蓮池新
治郎という人の責任で作品をミラテスに納入
しその製品代で材料を仕入れ給料も支払うと
いう組織になった。つまり井上房一郎という
個人のものではなくなった。ブル−ノ・タウ
トの給料は県の嘱託となっているから県から
支給される。但し県は百円しか出せないので
井上房一郎も名目上県の嘱託となりその給料
を合算してタウトに支払われたのである。八
十円だった。
布帛類のうち伊勢崎の境野三次という人の
工場に注文してミラテスが入たものは、タス
パン会社が高崎市内の捺染業者に発注したも
のと共に銀座のミラテスから婦人服地として
ストック商会その他に納品し、それで布帛類
のみでの収支は利益があったけれども綜合と
しては終始、赤字経営で続いている。そのデ
ザインは私の担当。
そして田中兵作氏はミラテス株式会社の為
に流動資金として二万円融資してくれ、利子
を支払っては続いてその資金はそのまま書き
かえては続けられていたのだった。
当時の二万円は現在の六千万、あるいは八
千万円位に相当する大金だったと思う。私は
もちろん田中兵作氏と面識はあったがドイツ
語での語らいは私にはわからないのでエリカ
夫人と話し乍ら待っていた。
田中氏が帰られる頃はすでに薄暮だったか
らエリカにいわれて懐中電灯を持って石段下
まで傘をさして見送った。現在の鼻高橋はそ
のころは無かったから自動車は信越線の鉄橋
よりも先の板鼻まで、まわり道をしなくては
中山道の本通りに出られない。
私が豪雨の中を洗心亭に行ったのは、19
35年(昭和10年)9月25日のこと、こ
の頃、タウトは9月9日まで持病となってい
た喘息に転地療法がいいということで伊豆、
上多賀の海岸に行っていたのだったが9月1
3日にしばらくぶりで洗心亭に戻ったので、
留守中の仕事などで打ち合わせることもあり
、同時に日本での著作のうち英文で三省堂か
ら出版された「日本の家宝と生活」(英文
HOUSES AND PEOPLE OF JAPAN )について私も
いろいろな資料を集めていたので話す必要が
あったし、もちろんタウトの留守中に作った
工藝品のことも話さねばならなかった。
タウトが洗心亭に戻った14日には井上房
一郎と共に私は洗心亭に行き、日本橋の丸善
でタウト作品展を開催するのでそれに要する
タウトの原稿を依頼してあった。
そして22日には仙台でタウトの通訳をして
いた国立工藝指導所の鈴木道次氏がドイツに
行っていたのだが日本に帰って来てドイツか
らの便りや資料を持参、私も洗心亭へ行って
共にその話を聞いていた。鈴木氏は洗心亭に
一泊している。
井上房一郎は私がタウトの著作の為に協力
するようなことは喜ばないので同席している
時にその打ち合わせはできなかったし、鈴木
道次君の来ていた時はドイツ語ばかりなので
私の担当している製作のことなど話せない、
そうしたこと含めて、私はタウトに話さねば
ならぬことがあったから敢えて雨の中を洗心
亭へ行ったのだったが、雨はいよいよ激しく
、夕食をすすめられたけれども辞去すること
にした。 (つづく)